不良少年と海 スペイン領セウタ(アフリカ)


        不良少年と海・・・・セウタ

                                    
 1981年の春、ぼくは海峡を渡る黄色い蝶のように、浮き浮きとしてジブラルタルを渡った。地中海と大西洋、そしてアフリカ大陸とヨーロッパをまさに二分する位置にあるこの海峡は、別名ギリシャ神話の海神の住処という伝説からポセイドンの二柱とも呼ばれて来た。ここを渡れば、もうアフリカだ。そこにセウタという小さな港町がある。町はモロッコに位置するが、ここだけはスペイン領なのである。フラメンコ、特に「カンテ・フォンド」という哀歌とジプシーのルーツを探ろうと言うささやかな試みの仕事で、ぼくたちは南スペインのアンダルシア地方に来ていた。ジプシーはインドがルーツで、そこからアラブ、アフリカを過ぎスペインに渡った種族がいると言われる。ならばヨーロッパの対岸モロッコあたりの音楽の中にもフラメンコの源流はあるだろう、海峡を渡って見ようということになったのである。
 スペイン南端のアルフェシラスという、美しい港町から船は出た。
 対岸のセウタまで約二時間の船旅である。ヨーロッパとアフリカ大陸間を渡る船というのでこちらは興奮気味だった。古代にあってはあまりにローマが強堅であったため、アフリカからヨーロッパを攻めるには地中海を真横に渡って行くよりも、ローマ支配下とはいえまだ未開の地であったスペイン、フランスへの入り口だったこの海峡を渡るほうが得策であったのだろうか。イタリア征服を試みたカルタゴのハンニバルが、逆襲に出たローマのスキピオが共に渡ったのもこの海峡であった。ムーア人があのアルハンブラ宮殿の若きスペイン王子を攻めるためにも、そしてその後も様々な歴史がこの海峡を舞台にして行き来してきたのである。
 そこで現代であるが、この海峡を繋ぐ船内には異国の観光客らしき人間などまるでいないばかりか、乗客はあるものはスペイン人、あるものはアラブ・モロッコ、そしてジプシーといった人間たちだが、彼らにしてみればこの船は単なる商売上の通勤カーフェリーといったようなものなのか、慣れ切ったもので、その姿はあっけらかんとしたものだった。ところが船が明け暮れぬ空の下を三十分ぐらい進んだ時のこと、船内の一角が突然騒がしくなってきた。タタン、タンという手拍子、ダダ、ダという靴の音、オレ、オレといった叫び声、そこに絞り出すような女の歌声が上がった。ジプシ−の一団が輪になって歌や踊りを始めたのである。彼らは退屈な時間を過ごすにはこれに限るといったふうで、船上はたちまち彼らに誘発された人間たちが作り出すフラメンコの渦になってしまった。何という自由奔放、快活さであろうか。こんなことは日本の通勤フェリーでは起こらない。饗宴は船がアフリカ側に着くまで続いたのである。
 その昔、たしかにジプシー達もこのようにして海峡を渡り、スペインにその熱い血を土着させていったのだろうと思う。今でこそ簡単に渡れる海峡だが、やはりここは巨大な大陸と大陸の間に横たわる海である。この海峡の道を行く旅人は、彼らが後にした故郷の歌をこの海峡の上で歌い、舞い、未知なる大陸に対する思いを馳せたに違いないと想像するのである。
 セウタのホテルに着くと、私たちはモロッコのタンジールから国境を越えてやってくる四人の男たちを待った。待つこと二時間、男たちはトルキスタン人のような帽子を被り、手に手に剥出しになったままの楽器を気楽に携えてやってきた。ルート(リュートの一種)、コンガ、タンバリン、それにヴァイオリンという編成の楽士たちである。彼らはホテルの隣の丘の上で演奏を披露してくれた。その音楽はムジク・アラベ・アンダルシアと呼び、まさにアラブとスペインを混入したサウンドで、これがマカバ・ホンドと呼ばれるアンダルシア古謡の原点かも知れない。

  愛は哀しいものなのだ、呼びあうものなのだ・・・娘よ。
  これは年老いた女が語る物語なのさ、
  昔、一人の女がやってきた、ハポネ・セニューラ、
  セウタの港からジブラルタルへ

  愛は美しいものなのだ、嗅ぎあうものなのだ・・・娘よ。
  これは年老いた男が語る物語なのさ、
  皆、その娘をカルメンと呼んだ、ハポネ・セニョリー、
  哀しい瞳には海峡の波風、 

 このような内容の歌であるらしい。まるでロルカの歌の、メリメのカルメンの物語の源流を語るような詞である。フラメンコは一人で謡うが、我々の歌は全員で謡うと教えてくれると、彼らはスタスタと町の中に紛れ込んでいってしまった。その何気ない姿を見るかぎり、彼らが果たしてスペイン領に国境を越えてやってきたモロッコ人とはどうしても思えない。旅人とは思えない。政治が作った国境はある、しかし彼らには、すくなくとも空気を媒体とする音楽を操る彼らには、土が繋がっていればどこにも歩いて行けるのだいった風にスタスタと行ってしまった。そう言えば、あの船上で音の饗宴を繰り広げていたジプシーたちもまた、この町のどこかに溶け込んで行ってしまたではないか。


 思うにこの辺りは国境、宗教、民族などといったものはまことに厳しい掟と規制があることは理解できる。祖父の土地、掠奪、征服されたものと征服したものと。しかし人間の耳というものは実に自由に出来ていて、人間がこうして構築した戦いの掟や、保守的になろうと意識した教育を越えて、その先にあるどうにもならない人間の根本成立ちとしての器官として、普遍的に音というものを受け入れるように思える。なぜなら国籍や民族や血といったものがまったく判別できない音というものは世界中に存在している。その理由を人はよく血が個性を作るという、その血の同種が民族であるという、その血が固有の民族文化を作るという言い方で説明しようとしてきたのである。しかし、それは今日、人間理解のための正しい表現であろうか、とぼくは思うのである。こうした考え方はまったく逆であって、ぼくには血というものは、人間が持つ自由な個性というものの存在を証明することが出来る、わずかひとつの物質でしかないと考える。血が個性を創るのではなく、まず耳、目、口、皮膚といった人間共通の器官が外部を受け入れ、その受け入れしたものを整理しようとする時に必要な引き出しとなるものが個々人の血なのではなかろうかということである。だから、この様々な血の結合が音楽を複雑な民族音楽に仕上げたのではないということである。血のもっと奥にあるもの、DNAのもっと先にある記憶といったようなもの、それがまず直接的に外部から侵入したどんな音や色や香りといったものを素直に受け入れるように出来ているのが人間なのだと思う。つまり血などという国境はこの時点ではまだ存在しないのである、その次に血がこれを個別に選別してゆく・・・こうした過程があってそれが何々文化等と呼ばれるようになるのではないか。ぼくが耳は自由であると言ったのはこういう意味であり、このことが音楽が血の争いをやめさせる起因になったことはあっても、未だ嘗て醜い人間同士の戦を起す原因を作ったことがない理由だと思う。
 ぼくはセウタの町に立ち去って行く、モロッコ人たち、いやアフリカ人、いや人間を見送りながら、彼らの奏でた音楽種類の成立過程は解らなかったが、音楽というものはやはりいいものだと思ったのである。


 セウタについた翌朝、ぼくたちは街の外れの半島にある小さな海辺の村を訪ねようと言うことになった。そこは回教徒たちだけが住む村だと言う。そこにどんな音楽や風俗があるのか。ところが出発する前、ぼくたちは警察からその場所の撮影は危険だ、保証出来ないと通告を受けた。泥棒や人殺しが住む魔窟で、スペイン人はめったにその村に足をいれたことがないというのである。
 ぼくたちは強行した。小さな半島の入り口にさしかかた登り道でぼく達はタクシーを降ろされた。これ以上先に自分は入れないと運転手は言う。そこで撮影隊はぼくを一人荷物の見張り番として残すと、半島の先にある危険地域に入って行ってしまったのである。
 しばらくすると、
 ー窓をしめないさい。荷物を狙われる、と運転手が言った。
 ぼくは撮影機材を床に置き換え、急いで窓を閉めた。そしてドア−をロックした。見るとどこから現れたのか三、四人の少年達がぼくの乗ったタクシーに近づいてくる。彼らは小枝のようなものでタートルネックの襟を目元まで持ち上げて、その顔を隠し、手にはチラチラと光る物を振りかざしていた。少年達はタクシーを取りまくと、窓の中を覗いたり、あげくの果てはボンネットの上に寝そべるやつまで現れた。彼らの目は獲物を狙う豹のように爛々と輝いている。
 こうした緊迫した時間がどのくらい経ったであろう。撮影隊の動向も心配だった。こんな餓鬼になめられてたまるか、ついにぼくはタクシーの運転手の制止を聞かずに、たまらず外に出た。そして撮影隊が向かった村に向かって早足で坂道を歩き始めた。たちまち背後から少年達がぼくを伺いながらついてくる気配をひしひしと感じた。
 駆けよう、そんな衝動に何度も駆られたが、もしここで走ったら、どうなるか。この坂を登り切ったあたりで、刺されるなとぼくはついに観念した。そしてぼくは坂道の頂上に立ったのでる。
 その瞬間、「あっ」とぼくは固唾を呑んだ。
 ゾクゾクと背中に感じる死の観念と対照的にぼくの目に入ってきたものは、強烈な太陽を浴びて膨大に広がるアフリカの真っ青な海原であった。そしてぼくの足下からその海に向かって埃だらけの一本の白い坂道が続き、その両側の斜面には黄色い色した回教徒の街並みが、やはり燦々と太陽を浴びてひしめき合っていたのであった。
 生きている。ぼくは何かから救われた、いや、何かを突き抜けて、何かに出くわすという感情に初めて満たされた。突如現れたアフリカの海と村は、ぼくの幻想の宗教風景だった。
 ぼくは少年達を振り返った。もう何も恐くなくなっている。初めてぼくは笑った。すると少年達が駆け出してきて、ぼくの隣に並んで共に歩き出したのであった。ぼくは一人の少年からナイフを受け取った。そしてそれを又彼に戻した。それからは彼らはぼくを囲むようにして、村を案内してくれたのである。そこは何という汚れた混沌がひしめきあい、寄り添いあった場所であっただろう。石の家、あばら屋といった貧民窟の羅列、そうした所から顔つきの悪い男たちが出てきて、彼らはぼくを威嚇するように見るのだが、その都度、少年たちが「こいつに手をだすんじゃねえ」と言わんばかりに道を先導してくれるのであった。だが、そんなぼくたちにまったく無頓着に歩きすぎて行く黒衣のイスラム女たちや老人もいる。そして暗い物陰からハットするように向けられる最上美人の娘の視線もある等々・・・。
 後でわかったことなのだが、その頃のスペイン領セウタには二万人のスペイン国籍のアラブ・モロッコ人が居ると言われる。しかし実際は国境を越えてくる者、あるいは労働許可書をのない者たちで、五万人のアラビア人が居るというのである。そうした人はほとんどが職もなく、その結果、当然のごとく暗い裏街道を糧として生きている者たちが少なくない。こうした種類の人間たちの中でも、とくにひどい連中やその家族、老人、子供たちがセウタから追いやられ、ついに住居地として屯した場所がなんとぼくたちが足を踏み入れた村アルフォソンであったのである。まさにここは仕事もない、放浪生活者の人間たちが住み着いた海ぎりぎり沿いの場所なのである。確かに彼らの行く先にはもう海しかない。だが、そこに向かって更に彼らが脱出できるとはぼくには思えなかった。なぜならこの小さな半島の、ほんの外れの土地に彼らはへばりついたように暮らしているのであって、それを引き剥がしてでも出て行こうとする気力、経済力もあるまいと村の様相が語りかけて来るからであった。まさにここにいる人々は最底辺の生活を生きる集団者ということになるだろう。だがこの村の眼前に広がる海の、なんと太陽を浴びて、明るい青さに輝き満ちていることか。もしこの海の輝きがなかったら、それこそ文字通りアルフォソンの村は暗黒の地になってしまうことだろう。ぼくが丘の上で感じたある宗教感覚とは、まさにこのような奈落の暗闇が白日の光明に照らしだされ、それが併存している所から生まれでるものであった。
 これも後でスタッフから聞いた話であるが、ある時この村にスペインの国営テレビの取材が入ったことがあるそうだ。彼らはこの村の様子を政治的に扱い、それがひどくこの村の人間に屈辱的感情を植えつけた為に、それ以降彼らはカメラを持った人間に懐疑の目を向け、容易に取材を許さなかったというのである。我々音楽隊はこの村を取材したが、帰国後この村の様子は放送しなかった。そこではテーマである音楽を聞くことが出来なかったからである。代わりにぼくたちが聞いたのは誤解という産物の作り出す喧騒、そして表面的な威嚇といった怒声のようなものであった。だが、現地人ですら足を踏み入れないこの村の少年たちが見せてくれた態度は、ひとたび理解しあえれば友人のように、ひとたび間違えれば集団的暴力も起こりかねないといった、いわば追い詰められた人間の心に生じる表裏の二面性の精神であった。彼らはほとんどがヘロイン常習者であった。しかし子供、老人、あるいは深い悲しみを背負った母親たち・・・こうした人々の姿の中には「とにかく騒ぎはよしておくれ。」といった平和主義者の顔を見ることが出来る。
 タクシーに戻ると、ぼくたちを心配した運転手が呼んだのか、二台のパトカーがいた。ぼくたちは街に戻り「命の保障もなかったのだぞ」と怒られながら調書を取られた。ぼくはポケットに小さなナイフを忍ばせていた。帰り際に一人の少年がそっとくれたものだった。
2015年11月19日 | Comment(0) | 紀行文

ベニスの蜥蜴

     ベニスの蜥蜴


 こんな美しい文章でベニスを描いた作品はあるまいと、幾度となく読み返した小説にヨシフ・ブロッキー著「ウオーター・マーク」というのがある。その中に次のようなエピエピソードを綴った箇所があり、強く印象に残っている。
 作者ブロッキーの友人のオルガ・ラッジという女性がビバルディー・ウイークを主催し、その音楽会をベニスのポリニャック伯爵夫人のパラッツオで開いたときの事だった。そこでオルガはビバルディを演奏することになるが。
「曲を弾き始めてしばらくして、一人の紳士が、サロンの中に入ってくるのを、彼女は自分の目の片端で捉えた。席がなかったのでその紳士は、ドアの傍に立っていた。曲はとても良かった。そして弾く手を休めずに楽譜の頁をめくらねばならぬところにさしかかって、彼女は動揺し始めた。目の片隅にいた男は移動して間もなく彼女の視野から消えてしまった。問題の小節が迫ってきて、彼女の精神はますます高ぶってきた。そしてちょうどその頁をめくらねばならぬ所にさしかかった時、左の方から、見知らぬ手が、突然さっと伸びると、楽譜の頁をゆっくりとめくるのだった。彼女は演奏を続けた。そしてその難しい小節が終わった時に、彼女は感謝の気持ちを伝えようと左の方に目をあげた。『そしてそれこそ』、オルガ・ラッジがあとで私の友人に語った所によると『ストラビンスキーとの、最初の出会いだったのよ』」(金関寿夫訳「ヴェネチア」より)


    *   *   *

 ベニスのサンマルコ広場のちょうど裏側、カンナレージュ区のフオーヴェ河岸から水上バスと呼ばれる船がベネチアグラスの産地として有名なムラーノ島まで出ている。
 今から十五年ほど前の話になるが、ばくはこの水上バスに飛び乗った。
 船は途中、石塀で囲まれた軍艦のような小島に、申し訳なさそうに立ち寄る事になっている。島の名前はサン・ミケーレと呼ばれているが、実はこの島全体がひとつの墓場なのだ。ぼくの目的はこの島に渡ることだった。日本を発つ前、確かそこに音楽家のストラビンスキーが眠っているという噂を聞かされていた。当時は今日の様に繊細を極めた立派な観光案内書など(注、パソコン等は勿論なかった)日本では出版されていなかったので、それが事実であるかどうかも定かでなかったのであるが、どうであれぼくはその墓場の島に渡ってみようと思った。
 その日、アドリア海の色はやけに黒ずんでいた。
 三角巾の波柱は、尼僧の行列のように並び、風の吹く歌にあわせてジャブリジャブリ斉唱の輪舞を奏でていた。おかげで岸壁に寄せる波も高かったが、船はそれ以上に軋んでいた。
観光客で賑わう船中のさまざまな人種の言葉が、これからゆく島の硝子のように異なった輝きを放ち、その夢心地の期待が足下の海面をさらに揺らしてダンスしている。
 旅人なら誰もが経験するかもしれないが、旅の中、海であれ、湖、河といったような水のあるところに行くと、何かしらの安らぎと郷愁を誘われることがある。長旅の疲れ、好奇心に満たされて熱っぽい身体、異空間に浸りすぎて麻痺されつつある頭脳、そうした経験の中で、軽く指先で水をさわったりして見る。すると水は、青く血管の中を上昇し、心のどこかでその感触が処女のような新鮮なダンスを始める。そのダンスは揺れる桟橋から船に飛び乗った時には頂点に達する。見知らぬ土地の、謎めいた水の色に浮かぶ、さらに未知への探険船の揺れ。それは赤子の時にはじめて乗せられた揺りかごのように、初々しいはしゃぎ具合と安らぎを呼び覚ます。
 この硝子の島行きのバスに載った人々の中にも水の作用は確実に生起しているとその時ボクも感じたものだ。
 少なくともベネチアという街が、水の揺りかごと言われる所以は、この地が地球という水の生命体の中で、その子宮の位置に最も近い場所にあるということだと想う。この街では、どこかへ行き着くためには人々は船に乗らなくてはならない。そこに生じる揺籃という感覚は、母が唄ってくれた子守唄を辿って自分の生まれ故郷に行く為の思い出の旅に似ている。水はその為のチケットの役割をする。この水の乗車券を手にしなければ、旅人はベニスという子宮にゆきつけない。そこで、意識しなくともこの街を訪れた人々の心は、この街の血管、すなわち、水と混じり合うことになる。

 船は客を乗せると、すぐにも走り出した。
 走るというよりも、むしろ跳ねているという感じだった。その運行に従い、海岸のイエズス会、マドンナ・デロルートなどの教会建造物が石の軍艦のうえの蜃気楼のように、うねって傾斜する。空が大きく背景に広がってきてやがて、ベニスの本島は仄かに海風に霞むが、次には千年以上の茶色の石彫刻の翼が水平線にその重い輪郭を広げだす。
 旅に出て船に乗る場合、ボクは行く手よりも岸から遠ざかってゆく景色を眺めることを好む。船の船尾が作る三角形の遠近法を見つめていると、その小波の上に浮かびあがってくる空と大地の広がりがいつしか喪失と蘇生という人間の生存に関する概念をボクに喚起してくれるからだった。
 定点のない宇宙の時の流れという航海の海の中で、僕たち人間はどこの港から、何から遠ざかって行くのか、それとも港が、何かが、ぼくたちから遠ざかって行くのか。そんなことを想像する介在に水がある。
 ゴーギャンは南太平洋の孤島タヒチにあって、この楽園の島が人工のヨーロッパから遠いのか、それともヨーロッパがこの島に遠いのかを問うた。そして彼のタヒチでの傑作のタイトルは「私たちは何処から来て、何処にいて、どこに行くのか」だった。
 また我が国の明恵上人は、インドの波は紀州鷹の島の波と通じている、ならば、たとえ自分がインドに行けなくともこの島の石は仏陀の足を洗った波と同じであろうと、その石を持ち帰った。そして祈りの手紙をこの島あてに出すのである。
 このように人間のアイデンティティを求める姿、定点の無い流浪と言ったものをかつてぼくは「星降る夜の綱渡り」という童話で描いたことがある。
 
 さて、船がサン・ミケーレ島に着くと、ここで降りる観光客の姿はなく、手に花束を持った一人の黒衣の老婆とボクだけが降船口に向かった。
 この頃は船が横づけ出来るような艀もなく、古い石段が、島を囲んだ石塀から暗い海の底に向かってただ一本降りているばかりであった。足を降ろそうとすれば石段は船の上下に合わせて黒い波を浴びては水面に現れたり沈んだりしている。
 どのくらいの年月の間、この海の流れはこの石にぶつかり波の音楽を鳴らしてきたのであろう。ぎざぎざに削られた階段の下には、海藻を被った古い牡蠣が、死んでいるのであろう、白い沈黙の文様を作ってさらに暗い海底にと連なっていた。
 その時、下船に躊躇していたぼくのすぐ脇から老婆がひょいと石段のひとつに飛び降りた。そして波がその石段を洗いにきた瞬間、老婆の足はもう次の石段の上にあり、ついに彼女はその靴を濡らすこともなくスタスタと島に渡ってしまっていた。いずれにしろ老婆の年齢を考えれば、こうした身のこなしの軽さは、これから誰かの墓に詣でる彼女の、死者への祈りの深さと、その身体にしみ込んだ墓詣での習わしの熟練さを現している。老人は死という場所に面した時、さりげないゆえに、若者よりも美しい所作の舞を演じるものだ。
 老婆のあとを追って船を降り、石の門をくぐると、今度はある広場にでた。老婆について行けば墓苑の入り口も分かるだろうと思っていたのだが、広場に出るとぼくはふっとどこかに老婆の姿を見失ってしまった。どこに行ってしまったのか、とにかく白日の墓苑の広場のまっただ中で、黒衣の老婆の姿は忽然と消えてしまったのである。
 仕方ない、目の前の鉄の門がどうせ墓の入り口だと思い、そちらに歩いて行くと、案の定、守衛らしき一人の男が新聞を読んでいた。
 「ストランビスキーの墓がここにあると聞いてきたのだが、教えよ!」
 こう訪ねようとしたが、そんなイタリア語が話せる訳がない。ただ不安げに「ストランビスキー・・・」と言っただけである。すると男は、鼻眼鏡の下からジロリこちらを一瞥し、机の上にあった紙をとると、しなびた鉛筆でなにやら地図を書き、ある場所に○をつけた。
「ストラビンスキー・・・ね」
 ぼくはあやふやに、その紙を受け取ろうとした。
 その時、男は軽く手を上げ、ぼくを制止すると、さきほどの地図の印の隣にもうひとつの印を付け加え、それから聞きづらい発音でポソリと何かを言った。どうせ、お前には分からないだろうがといった様子で、小声でその言葉を呟いた。
「何ですって?」
 ボクは、強い調子で聞きただした。
 すると、男は今度ははっきりとこちらに分かる様に一人の人物の名を告げた。
「えっ、ディアギレフ!」
 ぼくの声は大きかったのだろう。老人は驚いたようにうなづくと、はじめて優しげな微笑を浮かべた。
 ストラビンスキーの墓の隣に、最もその人と関係の深かった人物の墓があるというのだ。
 そもそもこちらに来るまでアドリア海に浮かぶ小島が墓場であるということも、ストラビンスキーがなぜそのようは島に埋葬されたのか、その意味さえ良く知らなかった。そんな自分がまさかこの墓守から「ディアギレフ」という名を聞かされるとは予想もしていなかった。男の微笑には「お前は彼を知っていたか!」といわんばかりの納得と満足が見て取れ、それから大きくうなずくと、又、新聞に眼を戻したのである。
 知っているか?それどころではなかった。
 ディアギレフと言えばロシアバレエ団を率い、当時の錚々たる芸術家を使って様々な斬新なバレエ作品を生み出し、今世紀初頭のヨーロッパを舞台に活躍した名プロデューサーである。しかも当時のぼくには彼と我が国の江戸時代の蔦屋重三郎の二人こそが今日的な芸術視聴覚文化の先駆者だと思ってきた。彼らは絵と音楽と文学を立体的に交差させ、さらに東西の文化をクロスさせ江戸とパリの庶民の間に新興芸術のあだ花を咲かせたクロスオーバーの旗手であった。そして多くの天才達がその仕事の巣から育って行った事で知られる。即ち、西洋ではダンサーのニジンスキー、画家のピカソ、バクスト、音楽家のサティ、詩人のジャン・コクトー等々、日本では写楽、歌麿、十辺舎一九、滝沢馬琴。そしてストラビンスキーはディアギレフの片腕とも言うべき存在だった。
 そんな訳で、当時の自分の音楽プロデュースという仕事上、このディアギレフのやり方を勉強し、彼のなした仕事を常日頃から憧憬してきたのである。彼のような仕事を残したいもだと心ひそかに情熱を燃え立たせていたものだ。その人の墓が偶然にも又この島にあるという。眷恋の情がわかない訳がない。
 その日は初秋というのに、軽く汗ばむほどの日和だった。
 石だらけのベニスの街と違って、ここサン・ミケーレの墓苑には林の道があり、静かな風が吹き渡っていた。緑の草むらには白い花々が咲き乱れ、静寂の墓石の上には小鳥のさえずりがけたまましいぐらいに、イタリアの青い空からの光の矢とともに落ちてくるのであった。ぼくは遠いローマ時代の異次元の道を行くように、木漏れ日の下、歴史のページをめくる様に墓苑の中を進んで行き、やがてストランビスキーの墓の前に詣でたのである。
 墓は長方形の真っ白な大理石の上に、ただ「STRVINSKYFI」
という名だけが刻まれてある、まことにすっきりした形をしていた。彼のあの幾何学的に構築された音を形に現せば、この墓標のようなシンプルさに行き着くのかもしれないといった印象だった。そしてその隣にはまったく同形の墓がもうひとつ並んでおり、そこには彼の妻の名があった。
 この二つの墓の清潔さ、それ故か、そのつつましさからは何かしら死後の世界にあってこの夫婦の孤独な固い契りといったような愛情のようなものが見る者の胸に迫ってくる。私は彼が残した、最も美しい小品「馬あぶみ」の旋律を思い出していた。
 そして彼らの墓と小道を挟んでディアギレフの墓はあった。こちらは日本の石灯籠のような奇妙な形をした石が苔むして立っていたが、これは多分ロシアの普通の墓の姿なのかもしれない。
 それから暫くの間、ぼくは二人の墓を交互に行き来した。それから二人の墓が見える木陰の石段に腰を降ろした。近くで人組の老夫婦が食事だろうかバケットを広げて何やら食べている姿があったが、それ以外は全く人影もなかった。
 ぼくはこうした静かな場所に一人佇んでいると、彼らが若い日のぼくに与えてくれた影響が思い出され、ここは現実の場所なのだろうかというような軽い錯覚を覚えた。
 様々な思いが交錯し、幸せであり、そして何故か満たされない自分がいた。ぼくは物悲しい旅情に浸された。それはここが海に囲まれた孤島であり、死者のみを葬る墓場以外に何もないという、その簡素さの成せる仕業でもあったのだろうか。
 思えば墓地という所は不思議な場所である、時には孤独な、安息の休憩場になることがある。墓地には生きた会話はなくとも、無数の沈黙の会話が落ちている。人間が心のパントマイムに行き着くためには、時として墓場という劇場に行くのがいい。
 貧乏で旅にも出られなかった学生時代、自分はよく墓地に出かけたものだ。早稲田から都電にのり、鬼子母神、雑司ヶ谷墓地、そして上野の入谷墓地へと。またあるときは青山墓地や三鷹の禅林寺、そしてようやく初めてパリに行った時も、モンパルナスやモンマルトルの墓地を散策した。
 そこに眠る著名な文学者、詩人、画家や思想家の墓を見て回る訳だが、彼らの墓前に佇むたびに、ぼくは彼らが残した作品よりもむしろ、その苔むした墓になまなましい彼らの実在生命を感じたりしたものだ。
「あ、彼らは本当にいたんだ!」
 そんな当たり前の認識が時空を超えた奇妙なトリック体験に思えた。そしてぼくは彼らから与えられた精神の台詞を思い出しながら、なんと現代は芸術家にとって生きづらい時代になってしまったのだろうかと、ひとり嘆きのパントマイムを演じたのであった。

 ぼくはもう一度、彼らの墓の前に立った。
 その時、ぼくは一瞬ビクっとした。ぼくのすぐ足の近くで何かが動いた気配を感じたからである。みればストランビスキーの純白の大理石の墓下から一匹の大きな黒蜥蜴が這い出していたのである。元来、爬虫類をみれば一目散に逃げ出す自分である。だが、そのときは不思議と足が釘付けにされ。眼は眼下の蜥蜴の美しい青と黒のラインを注視したままであった。
 蜥蜴はツツツーと墓石の真ん中まで這い出ると、そこでピタリと止まり、あたかも黒百合の紋章のようにその流麗な姿をくっきりと白い石の上に刻印した。傾く陽光が舞台照明の様にギラリと光った。
 ・・ニジンスキー。
 ぼくは呟いた。
 突然に墓の下から現れた、この一匹の蜥蜴のしなやかさを見て、ぼくはその人の名を咄嗟に浮かべたのである。
 そして、
「ひとつ足りない、何かが、そうだ、この島には彼の墓が足りないのだ」
 という想いに至った。
 このロシア生まれの天才ダンサー、ニジンスキーはディアギレフによって世に送り出され、ストランビスキーの音楽の立体化を担って舞い、その跳躍ぶりは「春の祭典」となってヨーロッパの一世を風靡したではないか。彼はまさに今、この島に並んで眠る二人のために蝶の様に舞い、豹の様に跳んだのである。それは近代バレエの見事な誕生であり三人の芸術家の結晶として現代にも溶けない美の形式なのだ。
 ならば、この島に彼の墓があってもいい・・・
 ぼくは自分が先ほどから感じていたある種の憂愁な気分を埋めあわせるかのようにひとつの想いを巡らせた。すなわち、もしこの島にニジンスキーの墓があったとしたら、この島の地下はたちまち彼ら三人の芸術家たちの冥府の劇場となり、訪れた者がその気になれば、いづこともなく聞こえてくるかもしれない新作オペラの音、バレエの響き、そうしたものが今でも奏でられているかもしれないではないか・・・
 しかし現実は違う。
 その後のニジンスキーはヨーロッパのこうした友人達と何故か喧嘩別れのように訣別すると、単身ニューヨークに渡り、最後は精神病にかかり、かの地で狂死しているのであった。そして彼の墓はロンドンにあると聞く。

 陽はカタンと傾き、気がつけば黒蜥蜴の姿もそこにはもうない。
 ぼくは水上バスの時刻が迫っていることを思い出し、彼らの墓に別れを告げると、船着き場に急いだ。
 すると、何処から現れたのか、先ほど広場でふっと消えてしまったあの黒衣の老婆が石段にジッと佇んでいる姿が眼に入った。ぼくたちは迎えにきた船に飛び乗った。それから老婆は船べりに腰かけると、すぐにも居眠りをはじめたようだった。
 ベニスはやがて海中に沈むと言われている。
 その時はこの墓場の島も沈むのであろうか。すると今度は島自体が海底の墓場となり、やはり冥府の死者たちはそこで何かに変身し、歌や踊りを波間に演じるのかも知れない。その時あの黒蜥蜴は青い魚にでもなって、ヒラヒラと海底の大理石の舞台に咲く花びら・・・船尾にぼくは座り、遠ざかる島影をみながら、そんなことを思った。

                「ヨーロッパ紀行より」



2015年11月19日 | Comment(0) | 紀行文

ヨーロッパ紀行1 沈黙の水仙・・・ブルージュ1

「沈黙の水仙」・・・ブルージュ

ああ。古びた家、木綿の窓掛、果 樹の茂り、芝生の花、籠の鸚鵡、
愛らしい小犬、そしてランプの光、尽きざる物思い・・(略)・
そして悲しいロオダンッバクのように唯だ余念もなく、書斎の家具と
寺院の鐘と、尼と水鳥と、廃市を流るる掘割の水とばかりを歌い得る
ようになりたい。
永井荷風「海洋の旅」より

その女性の印象は、その町には必ずしも似合ってはいないかも知れない。ヨーロッパには様々な顔をした町があるが、一番その女性に似合った街はやはりパリだろう。或いは南仏のサトロペとか。
 だが、何故かぼくはその女性の名を聞くと、ヨーロッパの小さな街を思い出すのである。その女性とは若くして亡くなった作詞家の安井かずみさんであり、小さな街とはベルギーの古都ブルージュのことである。
 安井さんはヨーロッパ、特に南仏やパリの香りのする歌をたくさん残した。彼女の「ズズ」という奇妙なニックネームを初めて聞いた学生時代、ぼくはその響きにまだ見たこともない憧れのパリの街を闊歩する粋な女詩人を想像して胸をときめかしたものだ。ゴダールの映画の中に出てきそうな名前、トリュフォーの女、ルイス・ブニュエル、いやいや、やはり「ベベ」、或いはミレーヌ・ドモンジョ、六本木族のお嬢さん、それともあの危険な知的淫乱な香をもったジャンヌ・モローのような女か、ぼくはこうした様々な印象を若き日、安井さんの綽名から想像したものだった。   
 後年、何度か彼女と歌の仕事を一緒させていただいたが「ズズ」はズズ自身であって、誰かに似てるといったような所はなかった。そんな安井さんとその夫をともなって、ヨーロッパのグルメとファッションを探訪してもらうという航空会社の企画で約二十日間ほど一緒に旅をしたことがあった。まことに慌ただしい旅だったが、そのスケジュールの中にベルギーのブルージュの街が入っていたのである。
 ここでの仕事は、ロスチャイルド家のワイン利きのライセンス、いわゆるソムリエの資格を持つシェフの経営する「バスケス」という高級グルメ店で、安井夫妻に料理を食してもらい、さらにその料理方法も見てもらうという内容であった。仕事は簡単に終わってしまい、あとは自由行動を取ろうということになり、そこでぼくはさして大きくもないこの街のあちこちを歩く時間にめぐり会えた。
 今日、ブリュージュという所はヨーロッパの中でも最も美しい街のひとつに数え上げられ、多くの掘割水路には白鳥が行き交い、そこに映える街並みは、中世そのままの姿を今に伝えていると言われる観光名所で有名になっている街である。まさにそのとおり。 レエスの織られる、北のベニス。
 だが、ぼくがこの街の名を知ったのは、そうした観光名所としてはなく、学生時代に読んだ一冊の本、一八九二年に書かれたローデンバックの小説「死の都ブリュージュ」というその不吉な題名と、本の中に入れられた数枚の町並みのエッチング挿し絵によってであった。しかも本の表紙にはデュルメが描いた幽霊のような作家の肖像画とともに、背景の水路と町並みも描かれていた。
 そこで中世以来の町並みが今も残されているのなら、この旅でも若き日に読んだ本そのままの場所に巡り会えるだろ、そうした想いがぼくのこの街に対する最大の関心事であった。そして、まさしくぼくはこの旅で、まったく本の舞台、挿し絵と同じ場所に佇むことが出来たのであった。若き永井荷風はアンドレ・レニエのベニス紀行と共にこのローデンバックの作品を溺愛し、この小説の描写のようにヨーロッパの街というものを描きたいと願ったという。その影響であの名作「フランス物語」は誕生したのだが、その街は今も昔のままに健在だった。
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2015年09月17日 | Comment(0) | 紀行文
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