私のアルバム〜プロデュース作品など〜 No2

「バラ色の月」「愛は不死鳥」

渡辺プロの制作部の担当タレントが布施明と決まった。
当時布施君は「霧の摩周湖」「愛の園」などのヒットを飛ばしている超売れっ子スターであった。
この大物歌手に新人の自分が現場担当になったのである。こうして見も知らぬ芸能界が門戸を開いた。
「バラ色の月」はちょうどその時、発売になった。叙情的な前作に比べ、軽快でノリの良いこの曲は自分好みではなかったがヒットした。
それから名曲「愛は不死鳥」「ときめき」「愛の終わりに」とういうカンツーネ的三部作が生まれる。
特に「愛は不死鳥」は紅白歌合戦で、布施君が袖に羽根のついたような洋服を広げて、この年の、と言うより、この布施君の派手な衣装パホーマンスから、その後の、あの歌合戦の趣向を凝らした歌手達の衣装競演が始まった。
一本一本、袖に紐の羽根を縫い付けたのは実は布施君のお母さんの深夜作業であった。しかも歌の途中で腕を広げて鳥になるポーズを作ろうと言うことを知っていたのは、現場マネージャーの僕だけだった。
見事に、成し遂げた時、痛快であった。これがエンターテイメントを知る最初の経験だった。

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(次回 布施明「そっとおやすみ」)
2016年05月25日 | Comment(0) | 音楽

私のアルバム〜プロデュース作品など〜 No1

「長崎は今日も雨だった」内山田洋とクールファイブ

僕が大学を出て渡辺プロダクション制作部に入社したのは1968年。
入社すると三ヶ月は営業、宣伝、友の会、輸送部隊など各部署に研修で回され、どのタレントのマネージャ-になるかは決まっていなかった。
そんな折、和久井プロデューサーの下で制作部研修でしている時、長崎から上京したばかりのクールファイブというグループの現場につけさせられた。当時彼らは恵比寿に全員で下宿していたのだが、前川清が野球が上手いということで、渡辺プロ内部のAチーム(制作部和久井さんを中心としたチーム)に入れられ、僕は早朝になると前川君を起こしに下宿まで行かされた。
記憶が確かなら、この曲はまだビクターのスタジオが築地にある時、そこで録音された。研修期間の担当であったが、これが僕の芸能社会で最初に関わったレコードだった。売れるかどうかなど分からなかった。彼らは故郷長崎のキャバレーでカスケーズの「悲しき雨音」を歌っていたが、僕はそれを出せばいいのになぁなどと思ったものだ。
この楽曲は翌年春リリースされ、見事にその年のレコード大賞新人賞を獲得。
その頃、僕はすでに配属も決まり布施明の現場担当になっていた。

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(次回 布施明 1 「バラ色の月」)









2016年05月25日 | Comment(0) | 音楽

劇団インフルエンザ公演日誌

「今日も脚本執筆 」No4

昨日は冒頭の方に出てくるロゴス達の詩三十行ばかりが突然浮かび、わずか三分足らずで一気に書き上げた。
しかしそれ以外の場面は、これぽっち一行も書けなかったナ。

本棚の奥に眠ってた学生時代買ったフランス語版「地獄の季節」を偶然見つけ、取り出してみた。

"Jadis, si je me souviens bien, ma vie était un festin où s'ouvraient tous les cœurs, où tous les vins coulaient.

我が萎びたこの脳髄に、どうぞ再びの青春の嵐を️てな気分になり、笑いで過ごした。

「漂流者〜諸君!狂いたまへ」(吉田松陰密航記)
劇団インフルエンザ公演 9月27日〜10月2日
中目黒ウッディシアター
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2016年05月25日 | Comment(0) | 舞台
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